私は自分が愛せなかった~慈分愛はこのようにして生まれました~
私は自分が愛せなかった
私は、かつては自己肯定感がとても低い人間でした。
そしてフラストレーションだらけの毎日を送っておりました。
いつも自信がなくて、人と比較しては欠けていることばかり数える、そんな自分が嫌いでした。
子育ても苦しいし、わが子に対しても、こんな母親に育てられるなんてかわいそうとすら思ったことも。
自分がこうなのは、母との関係が良くなかったからだと、絶望的な悩みも抱えていました。
自己実現とは程遠い日々、自分はなんのために生まれてきたのかと、まるで出口のないトンネルで、答えを探すことに一生懸命だった30代でした。
カウンセリングを受けたり、それを学んだりもしました。
そのほかにも子育てや、心の領域や、精神世界に関する本を読みあさり、様々な勉強をしたものです。
しかし知識が入れば入るほど、それができていない自分を感じ、ますますフラストレーションがたまる一方。
子どもを愛しましょう、上手に育てましょう、というようなことをいくら学んでも、自分が自分のことをまず愛せなければ、なんの問題の解決にもならないのだと気づいていました。
「すべてのことがうまくいかないのは、私が私のことを否定して、まったく愛せていないせいだから・・・」そう直感的に“知って”いたのです。
しかし、それから後、私は自分を愛することに真剣に取り組むことになります。
実はそのきっかけが自分の大いなる存在とつながったことだったのです。
大いなる存在からの呼びかけ
すべてのうまくいかない事象のもろもろの原因は、自分が自分自身を愛せていないからだということにたどりついた頃、それは始まり出したのです。
「愛していますよ・・・」
どこからともなくそんな言葉を感じるようになりだしました。
実際に声が聞こえるとか、そんな能力は持ち合わせていませんが、まさに言葉を感じる、としか表現できません。
想像力があるほうなので、自分で作っているのだと思いました。こんないたらない私が愛されているわけなどないと抵抗しました。
それでもその声はときに大きくときにささやくように、根気強く語りかけてきたのです。
でも、頑固な私は心を開くことができずにいました。
ところが、とうとう「参りました」と降伏せざるを得ない出来事がある朝起きたのです。
白い鳩のメッセージ
いつものように朝刊を取ろうと外に出たときに、フェンスに一羽の白い鳩が止まっているのを目にしました。
白い鳩なんてめずらしい・・・そう思いながら部屋に戻ると、今度は部屋の片隅に置かれていた聖書が目に入ってきました。
私は特定の宗教を持ちませんが、この聖書はときおり読んだりはしていたものの、もう何年も開かれたことはありませんでした。
でも、なぜかその朝は、ふと気が向いて聖書を手にしたのです。
何気なくページを開くと、ちょうどマタイ伝の、イエスがヨハネから洗礼を受ける場面でした。
その一文に私の目は釘付けになりました。
そこに書かれていたのは、このようなものです。
見よ、天が開け、神の御霊が鳩のように自分に降りてくるのをご覧になった。
また天から声が上がって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」
単なる偶然と言ってしまえばそれまでですが、「愛してますよ、だからあなたも自分を愛しなさい」というメッセージをさっきの鳩が届けに来てくれたように思えました。
この一件以来、どこからともなく語りかけられていた「愛していますよ」という声を素直に聞き入れ、自分を愛することにようやく重い腰をあげるに至ったのです。
自分とは何者かを知る旅の始まり
それからというもの、私にささやき続けたその声は、他にも私の霊的成長のためにいろいろなメッセージをくれるようになったのです。
しかしながら、聖書にある放蕩息子の話のように、またエゴの声にとらわれ、せっかくつながり始めた大いなる愛のもとをふらふらと離れていってしまうこともたびたびありました。
そのようなときには、完全にその声が聞こえなくなってしまうのです。
いえ、聞こえないのではなく、私が聞く耳をどこかにやってしまうのですが。
こうしてときおり道をはずれたりしながらも、「自分を愛すること」の旅を続けました。
まず、思い立ったのはこれまで学んできた知識を、自分自身に徹底的に投入し実践してみようということでした。
コーチングも、カウンセリングも、アートセラピーも、いまは仕事となった数秘術も、いままで感銘を受けた本やセミナーのこれだと思うことも、すべて自分をかいくぐらせて実践・適応していった結果どうなるかの壮大な実験です。
それは10年にも渡りました。
現実に起きてくることは思い描く理想でもないし、苛立つことも受け入れがたいこともありました。
自分を愛せていないと感じる時期もありました。
しかし、語りかけてくるあの声を信じて取り組み続けたのです。
その結果は・・・
私はすべてに感謝ができるようになりました。
耐え難いような出来事もありましたが、それは蓋を開けてみたら恩恵であることを知りました。
しあわせだと心から感じることが大半を占めるようになりました。
そして、自分を愛することがどのようなものなのか、身を以ってわかるようになっていました。
もう以前の私には戻りようがありません。
実験に費やす年月はそのまま自分とは何者かを知る旅となり、その向こうには新しい自分が待っていました。
慈分愛という言葉が降りてきた日
愛を知る旅は、きっと死ぬまで続くものかもしれません。
そして、旅の途中にはときおり思いがけないことも起こるものです。
数年前のある日、またしても不思議な出来事が起こりました。
その夜、瞑想をしながら、「いろいろやってきた結果、ずいぶんと自分のことがわかる(分かる)ようになった」と振り返りました。
そのときです。
自らを分かり、(自分が愛の存在だということを理解し)
自らを分ける。(その愛を他者に注ぐこと)
突然、そのような言葉が頭にわきあがったのです。
そのとたん、大きな石のように「慈分」という言葉がずしん、と頭上に降りてきました。
一瞬にして、腑に落ちました。
慈分(じぶん)・・・
「自分」とは、慈しみを分け与える存在なのだ。
私たちはすでに大宇宙から愛されてこの世に存在している。
その愛と慈しみで自分を満たし、他者に慈しみを分け与えていくのだ。
それが「慈分愛」であると。
このときもきっと、私の中の「大いなる存在」がそう導いてくれたのかもしれません。
慈分愛という言葉が生まれるまでは、このようなストーリーがあったのです。
愛はレッスンで身につく
無尽蔵の愛と慈しみに満たされている存在なのに、私たちはそのことを理解できない。
だから誰かから愛を与えてもらうのに執着し、つきまとう愛の不足感に苦悩します。
愛は自分で満たすことができるのに、多くの人はそれを知らない・・・。
これまで、数秘やOHカードのセッションにお越しくださるお客様に、部分的にその方法をお伝えしてはいましたが、こうして自分を愛するためにはどうしたらいいか試行錯誤してきた取り組みが、今、慈分愛レッスンのメソッドとして集大成しました。
私たちの集合意識はつながっています。
私に起きたことはみなさんにも起こりえます。
自分を愛し、慈しもうと心の底から思った瞬間に、みなさんの「愛」のスイッチは入るはずです。
そしてうれしいことに、愛はレッスンで身につくものなのです。
私たちの過去も性格も才能も一切関係なく。
私の究極の願いは、自分自身は大切な愛の存在であり、慈しみを分け与えられている存在であることを本当に分かって、その慈しみを周囲に分け与えていく“一隅を照らす人”がひとりでも多く増えて、この世界が愛と光に満ちていくことなのです。
慈分愛レッスンを通じて、自分を愛し、真実の自分に還る旅をあなたとご一緒できたらうれしいです。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
みなさんの心に愛と平安が訪れますように。
数秘サロンTSUKIYOMI
阿部としみ
タグ:自分を愛する